「中城文庫」のご紹介         中城正堯
 

「中城文庫」の資料は、土佐藩御船頭を務めていた中城家幕末の当主・直守の手稿「随筆」と短冊、坂本龍馬が眺めた襖に始まる。随筆は、倒幕へのうねりを土佐の下級武士が書きとめた時代の記録であり、短冊は歌人・国学者でもあった直守の息吹が今に伝わるコレクションである。国学者本居宣長とその門人の短歌から、勤皇の女流歌人・野村望東尼、土佐では鹿持雅澄や中岡慎太郎におよぶ。藩船の船長格として江戸に航海しては、尊王歌人たちとの交流を深めていたようだ。
 

 龍馬との親交は、近所にあった回船問屋川島家を介して始まり、慶応39月、龍馬は最後の帰郷に当たって一時中城家の離れに潜伏、浮世絵を張り込んだ襖を眺めている。今回この襖とともに、昨年10月に東京で見つかり話題となった坂本龍馬役者絵も、龍馬が妻・お龍に与えた帯留とともに初公開される。帯留は愛刀の目貫留(めぬきどめ)下緒(さげお)で作ったもので、真鍮の目貫留には龍が刻んである。お龍が妹・起美の嫁ぎ先である土佐和食村千屋家に滞在した際に、起美の夫・菅野覚兵衛の姪で当時11歳の仲を可愛がり、プレゼントしたものだ。仲が中城直顕の後妻に入って以来、中城家一族の女性に受け継がれてきた。海援隊士だった菅野覚兵衛夫妻の古写真も展示される。龍馬の刀の下緒が、一つは同士の血に染めて勤王倒幕を誓う役者絵として、もう一つは愛妻への遺品の帯留として登場するのも、没後141年目のふしぎな(えにし)である。
 

 戊辰戦争を経て、明治新政府は列強を追って富国強兵・殖産興業の道をあゆむが、それは戦争への道でもあり、中城家一族も巻き込まれてゆく。中城直顕は戊辰戦争の途上、堺で土佐兵がフランス兵と衝突した堺事件の当事者であったが、白くじをひいて切腹をまぬかれる。土佐藩を窮地に立たせたこの事件の資料も見所だ。直顕は帰郷後、御船倉の造船技術を生かして三業組を設立、高知県近代造船業の開祖とされる。これらの足跡を伝える資料と共に、孫文の辛亥革命へのカンパ謝礼にもらった花瓶や、好きだった歌舞伎の役者絵もある。造船業で活躍したのは、種崎・田所家の養子となった中城為助の長男・田所元喜で、蔵前工業学校(現東工大)を出て長崎三菱造船所の技師となり、軍縮で土佐沖に沈められた戦艦土佐や豪華客船の建造に活躍、その関連絵はがきが今に残る。
 
 日清・日露戦争では高知の兵士も多くの犠牲者を出した。「陣中無礼講之図」は、日清戦争で初めて赤十字をかかげた衛生兵の、のどかな宴会だ。日露戦争では、中城直顕の婿・弥長勝衛のロシアでの捕虜収容所写真集『配所廼(はいしょの)(つき)』が貴重。弥長は慶応義塾を出て日本郵船に入り欧州航路佐渡丸の事務長となるが、船ごと軍に徴用され捕虜となった。ロシア革命後のシベリア出兵では、高知県立図書館長をしていた中城直正が、現地にいた高知の第44連隊にたのんで、混乱期に発行された珍しい切手紙幣などを収集している。直正は東大国史科を出た歴史家で、武市佐市郎等と土佐史談会をつくり、『高知県史要』を編纂、武市瑞山など維新の志士顕彰にも尽力した。この間に研究史料として収集した幕末・明治の藩札も展示される。中城家一同が集めた明治・大正期の絵はがきは、外国・国内計4000点近くにおよぶが、今回は古き良き時代の土佐の風景・風俗に絞り回顧いただく。
 
「中城文庫」の人と展示品を紹介してきたが、中城家には著名な人物はおらず、美術の名品もない。あるのは幕末以来の激動の時代に、「海から世界へ」果敢に乗り出していった土佐人の苦闘を示す活動記録と、雑多な生活資料である。ところが立教大学名誉教授の故・林英夫先生が、近代史、特に社会史・地域史・家族史の貴重な研究史料であり、まとめて保存すべきだと評価してくださった。さらに地元識者(山田一郎・橋井昭六両氏)の推薦もあり、高知市が受け入れを決定、全国に先駆けて近代史の家文庫が誕生した。研究史料にとどまらず、市民・県民の皆様が身近な先祖と地域の歩みを振り返り、明日を展望する手がかりとして活用いただければ幸いである。
 
「平成20年1月1日付 高知新聞」より